世界の片隅で愛をつぶやく
■昨日は僕のお誕生日。
家族からハッピィーバァスデイの電話があった。
父親から近況を聞かれて
「元気にやっています」
と答えた。
■気がつけば28歳。もうすぐ三十路だ。
■30歳、成人説というのがあるらしい。
つまり、社会人として本当の成人は20歳ではなく、30歳であると。
そう言えば、孔子も30歳にして、
- 而立(ジリツ) 学問を確立する年齢
と言っているようだ。
20代もそろそろ最終コーナーを回りかけようとしているが、
20歳なったときの自分を思い返してみる。
そう言えば、立花隆が「20歳の頃」という本を出していたなぁ。
■20歳の誕生日は、世界の片隅の下宿でぼんやりしていた覚えがある。
大学の授業に出ずに、ぼぉっとベッドの上で本を読んでいた。
何を読んでいたのか今となっては思い出せないが、おそらく当時自分の本棚に入っていた本を思い出すと、
何か、哲学関係の本だった気がする。
工学部の学生がなぜ、哲学に興味を持つのか自分でも今となっては不思議なのだが、
大学生は敬愛する哲学者を一人は持つべきだ。
と誰かに言われて無理矢理わけもわからず、読んでいた覚えがある。
■結局大学院では、フォーマル・メソッド関係の研究をやることになったので、まぁ、何となく関係なくもないことをやっていた気がする。
■大学の卒業研究では、自然言語関連をやっていたので、突然、大学院になってから、形式論理の世界に行ってしまったことになる。
■と言えば、かっこよいのだが、実際はセマンティクスを代数で与える、フォーマル・メソッドの理論方面はさっぱり分からなかった。
研究自体は、先輩がやっていた研究の手伝いで修士号をもらったようなものだ。
他の先輩方は、計算機の前というよりは、
紙と鉛筆と論文を使って格闘する方が多かった。
その研究室の中では僕は異質で、ずっとプログラムを書いていた気がする。
■ひとまず、自分が研究室という世界で生きていく脳みそがないと分かったので、
僕は社会に出ることにした。
とは言っても、研究室で得た遺産で今はやっているようなものだ。
■20歳で茫洋と広がる世界と未来に思いをはせながら、
僕は本を枕元に投げ捨て、天井を眺めていた。
もう少し、未来はまともなモノになるのだろうと。
当時、僕には好きな人がいたのだけれど、あらゆる意味で制約があって、
好きとも言えず、ただ、自己完結+煩悶していたのだった。
ベッドの上で僕は「彼女が好きなんだろうな、やっぱり」と延々と呟いていたのも確かだ。
結局、僕の20歳の頃を考えてみると、
「世界の片隅で愛をつぶやく」
だけだったと思う。
■それから、20歳から、25歳の終わりまで20代の半分を大学という場所で過ごすことになる。
そして、26歳から30歳の20代の半分は企業という場所で過ごすことになると思う。
■大学に戻る気もないし、企業にこのまま居続ける気もあまりしていない。
■じゃ、何をする?
と聞かれると、
「さぁ」
と答えるしかない。
■28歳の誕生日の日、
「自分が何ものであるか」
−この世でもっとも低俗な命題−
に対して、僕は答えられずにいる。