全知全能が消えた日

 橋本治が、70年代にあった全知全能のコンピュータがすべてを解決する「物語」が消えてしまったことを以前指摘していたのを思い出す。


 一番、想像しやすいのは70年代の漫画に出てくるようなビルくらいの大きさにあるコンピューターだろう。
 そいつに聞けば何事も答えが返ってきて、人は困ることがないという寸法だ。



 80年代後半以降こういった全知全能をモチーフにした物語が世間から徐々に消えていき、90年代中盤にかけてほぼ消滅してしまう。
 もちろん、95年10月テレビ東京系放映の「新世紀エヴァンゲリオン」に登場するMAGIが合議により3台の第6世代(!)コンピューターが結論を出すというシステムをもつことを引き合いに出すまでもなく、明らかに90年代後半からは、単一の答えを導出する存在に対して、ある種の疑念が登場しているとも言えるだろう。*1



 70年代の物語に頻繁に登場する「マザーコンピューター」というモチーフは、コンピューターを突き詰めて巨大にすることで全知全能が得られるに違いないという発想を反映してのことだろう。
 面白いのは、こうした考えに基づいてかどうかは分からないが、70年代以降大手金融機関を中心に勘定系システムの担い手たるホスト・コンピューターが大量に導入された時期と重なる。 つまり、ある意味巨大コンピューターの夢を見た時代と言えるのかもしれない。


 そして、80年代、90年代以降のダウンサイジングの波は90年代後半に登場したインターネットという波に乗り、分散型コンピューティングへの流れを作り出した。P2P/Gridもこの流れに連なるものと言ってもよいだろう。


 端的に言ってしまえば、集中から偏在へコンピューターの歴史は移動し、そして、それに併せて人々の持つ全知全能を希求する意志も同時に薄弱になる。なかなか面白いシンクロではないかと思う。


 橋本治は「「わからない」という方法」の中でこの現象(時代/世相)を、「絶対の答えがない時代」と論じている。つまり、唯一の答えを「知る」時代から、「わからない」という方法を用いて各人の答えを導いていく時代に変わりつつあると論じているわけだ。


 人々の思想が集中(全知全能)から偏在(各人それぞれ独自の知)へシフトしていくからこその現在のコンピューティングと言えるのだろう。


 そう言えば、ビルほどの大きさがあるコンピューターの現在の姿が、NEC:地球シミュレーターやIBM:BlueGeneと言えるだろう。
 ある意味、有限要素法的算術を高速/大規模に処理にするための分散処理系を集約させたアーキテクチャーなので、正しい意味での70年代希求的コンピューターの姿とは異なるのかもしれない。


 現在は科学技術計算を中心に活躍している、これらのスーパーコンピューターだが、ビジネスという方向での利用は現在は皆無と言える。

 逆に言うと、我々自身が「コンピューターという作法」に対してまだ慣れていない、黎明期の状況にあるのかもしれないと最近痛切に感じる。
 

*1:ちなみに、先ほど引き合いに出したMagiはマザーコンピューターというモチーフ/オマージュという母を持つ、インターネットという父親の私生児とも言える発想だと感じる