公園のベンチで遊ぶ子供たちを眺める

公園のベンチに座ってブランコで遊ぶ子供達をみていたら、
ふと、自分の子供時代のことを思い出したりする。
そう言えば、自分もこうしてブランコで遊んでいたなと。

自分に子供ができるかどうか分からないけれど、
次の世代の子供が、今の世代の子供に代わって、公園で遊ぶ。

もしかしたら、公園の遊具は様変わりしてしまうのだろうけど、
それでも、繰り返し、繰り返し、幾世代にわたって
子供が遊ぶという行為の連鎖が反復されていく。

そういった行為の連鎖の反復が、再帰的に世の中で繰り返されていくことが、"わっと"頭の中を巡ってしまったのだ。

それは、まるで何をみても再帰的に連鎖していく行為の集積の一端を見る感覚と言ってもいいだろう。

これが、「何を見ても何かを思い出す」という状態なんだろうか。

きっとE・Hが書いた「何を見ても何かを思い出す」を読んだら
全くの勘違いと言うことが分かるだろうし、
小説や映画のタイトルから内要を想像し、予告編や噂でさらに内容に対する誤解や曲解を増幅させたあげくに
「何だこういうことか」
と思うことさえ、構造的/神話的に反復されることに思いをはせながら、僕は公園のベンチを離れるのだった。


※ ドフトエフスキー カラマーゾフの兄弟